田邊哲人コレクション
お問い合せ

田邊哲人コレクション 

 田邊哲人著書 「大日本 明治の美 横浜焼、東京焼」 (叢文社)・・・序文より引用

横浜焼、東京焼とはなんのことだろう・・・

ほとんどの学者、商者は「見たことがない」という。
文明開化の明治の横浜には、文献に出ているだけでも、
60もの、70もの窯場が、また加工場の名が残っている。
しかし、残念なことに当時の作品が日本にはなかった。
それは、ほとんど当時の先進国欧米の愛蔵品であったからだ。
私は、それを探して早や、40年の歳月を費やしてしまった。研究者としては、まだまだ力不足で、「たどりついて、やっと山麓」と言ったところだろうか。しかし、いささかでも、開国明治の日本の歴史の1ページを開いたと思っていただけたら幸甚である。
歴史や考古は、極めてマニアックな世界で家人に誉められたことはない。途中で投げ出せば、いつでも投げ出せた。しかし、一ツ一ツの作品に「大日本横浜」「大日本東京」を見た時、なんとも喜しいのだ。
私自身が外国で生まれた。家族は8年間パラオにいた。父は報道班の仕事をしていた。第二次世界大戦で、日本に戻って来た。何かこの品物を見る時、似た者同志のような、とても近親感を覚える。

当時の横浜港からの輸出品は絹、茶、陶器などが主要であった。私は誰彼となく言う。「横浜港からは絹や茶や陶磁器が積み出されていった。しかし“絹”や “茶”は横浜産ではない。ただ、積み出した港というだけのこと。本当の『メイド・イン・横浜』は陶磁器である」と。すると、ほとんどの人はキョトンとす る。横浜のどこに窯場があったのだ? というわけである。陶磁器の関係者の名前や住所の記録が70以上残っている。共同組合や製作所に登録のない小規模な もの、また、職人だけなどを含めたら、この何倍であろうか。いずれにしても横浜の街中に多くあった陶器製造場で(陶器だけではないが)窯煙があがっていた というのだ。
横浜に初めから本窯があったわけではない。小規模な絵付窯はあったかもしれない。しかし、本窯は真葛香山がさきがけであった。明治3年頃より香山は野毛山で京焼風をポツポツ造りはじめた。
横浜焼が急激に発展したのは、明治6年のウィーン博覧会に出展するため、明治3〜4年から国が指導してつくった「東京絵付」と関係が深かった。総裁の佐野 常民のもとで、が指揮をとる一大事業であった。これを「東京」という。徳立は「従来の画一的な模様方式では全然ダメだ」と全国より絵付師だけではなく、 「本職の画家」を集めた。そして花瓶や壺に『日本の絵』を描かせた。これら欧米の見識者たちはまだ見たことのない極東の異国に非常に興味を抱き、“ジャポ ニズム”というエキゾチックなものに目を見張り、一大ブームとなった。
当然、陶磁だけではない。蒔絵、漆芸、染織、金工、竹工、木工、七宝、どれひとつをとっても、とてつもなく精緻で、彼等は日本の技術の高さに驚嘆した。 ウィーン博は大好評のうちに終了したが、その「東京絵付」は1年だけで瓢池園に売却された。その以前より地のりのよい横浜に絵師や技術者たちが集まり活躍 していたが、それが「横浜絵付」すなわち「横浜錦窯」となり、「メイド・イン・横浜」と言う。『大日本横浜』の銘を入れ、そして、世界中に発信したのだ。 質のよい陶磁に当時の最高の画家が絵付けをしているため、初期の作品に粗悪なものはない。組合の管理も厳しく行き届いていたこともあった。また他県の産地 でもバイヤーの集まる横浜に支店や販売店をおいた。よって横浜だけで明治20年には67〜8万円の輸出高となった。

ここに当時の真葛香山の評判の記事が、京都美術協会の雑誌にある。
「それに出陳された工芸品も、精緻な作調のものが人気を博した。特に真葛香山の壺は荒土で成型され、垣根に瓢を垂らした高浮彫の作品は真に迫っていて、大評判であった。明治天皇も大変に興味を示し、“親しく手にふれられたり”」と記録が残っている。
その後、明治14年に第二回勧業博覧会など様々に作家の活躍する場を与えた。また、ヨーロッパの影響を受けたワグネルや香山、良斎(二代)、井村、友太郎 などの釉下彩に移行し、さらに「明治の力」を世界に知らしめた。香山は明治27年、帝室技芸員となり、天皇より給金をいただく身分となった。
このページのTopへ
このホームページの画像・文章の著作権は、田邊哲人コレクションに帰属します。無断転用を禁止致します。
Copyright (C) Tetsuhito Tanabe Collection. All Rights Reserved. Designed by Thread.co.jp.